こいもさんたいたん


小芋さん炊いたらお酒入れすぎた。酒フレーバー。
炊きなおしアルコール分飛ばし砂糖増やしておいしくなった。
お弁当に入れて持ってた。水分防止で鰹節まぶしてさらにおいしい。自画自賛。まんぞく。
お弁当作るの楽しい。でもひとりでだし巻作ると卵4個も使うから1回量だともったいなくて、普通にフライドエッグにするかゆで卵で我慢してる。ちぇっ。


「小芋」は東京では「里芋」と呼び、「炊く」とは言わず「煮る」と言うという。
ようわからんわ。


「なんきん」は「かぼちゃ」と言い、「白ねぎ」は「長ねぎ」。
モノを「なおす」と言ったら、修理か?と問われ、片付ける事は「しまう」と言うのだと。
ようわからんわ。

テレビで見たけどお宮参りにおでこに紅で「大」(男児)も「小」(女児)も書かないらしい。
えええええ!
じゃあ、あの人もこの人もおでこに大、小書かれずに…。と思うとヘンな気持ちになる。


やっぱりようわからん。


友達とSALEに行った。よいもの買った。プロパーより半分ほど安く、しかも着ると三倍の値段に見える。うひゃひゃひゃ。
友達は「なぜそんなに的確にいいものをあの膨大な量から見つける事が出来るのか?」とあたしに問うた。
服が呼ぶのに。
どこにも焦点を合わせず、ただぼんやりと会場全体を見たら、目の端に必ずひっかかるモノがある。
それがあたしに着られたがっている服である、と教えてあげた。
頭をカラッポに。
瞑想とおんなじなのに。
と、デンパがますます強まる発言をしてしまう。
しょうがない、ほんとのことなんだから。


欲しいと思っていたら、必ず手に入る。
そろそろ、新しいひざ掛けが欲しかった。
そしたら、義妹から夏帰省した時の出産祝いの返しでひざ掛けが贈られてきた。


手に入らないものはほんとうは欲していないものなのだ。


知ってるけど未だ手に入らないものがある。

やがてその日が


友達に電話をした。
去年の10月に会って以来、ご無沙汰していた大阪の。
何故だか急に電話をかけたくなった。


近況報告をお互いして、ふと、彼女が話し始めた。
「今年の3月にね、あなたも一度会ったことのあるあたしの友達、Yさんって覚えてる?死んだのよ…」


え?


あたしは聞き返した。耳を疑った。死んだって、だってあんたより年下じゃない、あの子は。


37歳。ガン。
3月に告知され、余命2ヶ月宣言。
そして、5月に余命どおり逝ったと。


「毎週お見舞いに行ったの。でもね、見られなかった。見るのが怖かった。全身に転移して、脳にまで達してたから、目は開いてるけど、なぁんにも見てないの。その目が怖かった。なんにも見えてないのになんでも見透かされるような気分になる。見舞ってもいつも顔を見る事ができなかった。」


怖くてしょうがなかったと、どうしても顔が見れなかったと、彼女は言った。
当たり前だよ。でも顔を見れなかったとしても毎週見舞う行為はYさんには伝わってるよきっと、と話して、電話を切った。


あたしだって怖い。
いやきっと誰だって怖い。
光宿らない目。
なのに見透かされるかのように見つめているように見える目。
そして、死。


話自体をまとめる事が出来ない。
つづく、か、つづかないか、は現時点で未定。

物語の再構築


自分の中に眠ってる厖大な物語に漠然とする。
昨日突然、書き換えが起こった。


生きてるといろんな事が起こる。
そしてそれを自分の中に落とし込むために、自分は自分の物語を記憶の中に書き込む。
でもそれはとても主観的なものだ。
当たり前なのだが。
見ているのが自分なので自分しか物語を構築しないからだ。


それが、色々な事象が重なり合ったりして、突然書き換わる時がある。


そしたら、世界が変わるんだ。
世界が変わるというよりも、世界の見え方が変わる。


なぁんだ、そういうことだったのか。
と、当然軽くなる。


昨日のあたしと今日のあたしは違うあたしだ。
連続しているようで、ビヨーンとナニカを飛び越えた感覚。


超絶的な孤独感がぐるっとひっくり返って全部が繋がってる感。
うらおもて。
そんな感覚。


果たしてそういう時、あたしはあたしとして、同じ人なのだろうか?


今日はジャコの命日だから、昔死んだ前の会社の社長を思い出した。
ジャコ大好き社長だったから。CDいっぱい貸してくれた。
ジャコといわずjazz全般にとても造詣が深い人で自らもウッドベースな人だった。
私の知らないアルバムだったがとてもかっこいいjazzのアルバムが出棺の時にかかっていた。
蓋が閉まる瞬間と、曲が終わる瞬間が、全く意図せずシンクロしたのを見た瞬間、泣いた。
かっこよすぎるぜ。と。


こういうのも物語のひとつ。


書き換わる物語と書き換わらない物語。
厖大に拡がる意識の中に散らばるイメージ。思い出。


死ぬまでにどれだけのイメージを蓄積してあたしは生きるのだろう。
そしてその中のいくつが、あるとき突然変容するのだろう。


物語の再構築は別人になった感覚をあたしに思い起こさせる。

父の知らない祖父


お盆に大阪に帰省。


今回は20年以上会っていない叔父夫婦とご対面という不思議なイベントが待ち受けていた。
あたしが子供の頃にしか会っていない親戚に会うというのは本当に不思議な気分である。
物理的距離が遠いわけではなく精神的距離があり、父と叔父とは長年会わない事を選択してきた。
というより叔父が会うことを拒絶していた、というほうが正解である。
血の繋がったものたちは一度こじれるとなかなかタイヘンであるなぁと、感じさせる出来事が10年ほど前にあり、
そこからまったく付き合いがなかったのである。


今回は叔父が長年の菩提寺を変更し京都に移したことによるご先祖ミラクルみたいなものであった。


叔父と父は10歳年齢が離れている。
今回はその父の生まれていない10年間の祖父との出来事というものを叔父から聞いた。
あたしのまったく知らないおじいちゃんの話…。
父が生まれていないので当たり前なのだが、まさかの内容で幼少に亡くなったおじいちゃんのイメージとリンクしなくて、とてもおもしろかった。


祖父はロシア語と英語が堪能で横浜でホテルの支配人をしていたこと。
そのホテルが閉鎖され仕事がなくなり一度田舎に帰り、その後新しい仕事に就くために岡山に引越しそこで父が生まれたこと。
とても器用な人で料理もなんでも出来ていつも飲み屋で知り合いになった人を家に泊めてあげていたこと。
そうやって他人様に施しを何も考えずにし続けたり、酒豪で芸者を上げまくり一族のお金をつかいはたしてしまったこと。


や、やんちゃしまくりですがな、おじいちゃん…。


父の叔父へのコンプレックスが一緒にいると手に取るように透けて見える。
あんなに気を使い緊張している父を見るのは初めての様な気がした。
精進落としなので和食と思ったがもう何十年も経っているのでフレンチにしよう、と叔父が用意してくれていたお席で食事。
叔父の話はさらに続く。


さらに遡りもっと前の先祖が何をし、どういうことをしてきたのか、とか。
何代も前のおばあさんは寺を建てたので厨子にまつられてるとか、講をやってたとか。
長男が持つ先祖伝来の刀の話とか…。
父はその刀が欲しかったんだな〜とか諸々の話を聞いていて思ったが父は末子なのでそれは決して本家以外には手に入らない宝なのだった。


知らない話。
知らないおじいちゃん。
さらに遡り知らないご先祖様たちの話。


墓参りというシステムがもたらす先祖への語りはこうやって子孫に浸透していくのだ、とはじめて理解できた気がした。


墓参りの最中、兄弟で並んで歩く叔父と父を後ろから見ると歩き方がそっくりで。
手の向き、肩の動き方、身体の揺れ方。
そして、すっかり頭のさびしくなった叔父は思い出の中の祖父にそっくりで。


思い出し語られることにより連鎖していく鎖。
死者との繋がり。
忘れ去られぬようにと計らいされているシステムが繋ぐ和解。
ご先祖様ありがとう。
おもしろいはなしがいっぱいで楽しかった。

モノを捨てる


こないだテレビをポチッとつけたら須藤元気が出ていた。
すきとかすきでないとか、そういうのはまったくないのだけど、変わった人という印象を受ける人だ。


「モノをもつのにもエネルギーをつかうでしょ?」と。だから何か一日ひとつモノを手放すらしい。


ほぉぉぉ。
確かに。


コレクターさんが友人に数人いるけれど、確かに皆様パワフルだ。


なんとなく、あ、これはほんまやな、と自分は思ったので、その日から何か手放すものはないかどうか、毎日考えてみる時間を作ることにした。
あたしの場合は服が…。


先日買ったばかりでまだ2回しかはいていないスカート。
実は2回目にはいたとき、会社でお弁当のおかず、アスパラベーコンを落とし、正面に油のしみがついた。
家に帰っていろいろしみとりやらなにやらケアを最大限したが、元にはもどらず。


あたし、手放せない…捨てれないわけですよ。


デザインが気に入ってる。
今までと違い持ってない形だ。
まだ(たった!)2回しかはいていない。減価償却できてない!!!等等。


ぐちゃぐちゃぐねぐねぐるぐると考える→その思考時間自体がどないやねんっ!
ねるねるねるねのように思考は形を作り上げて行き、ああこれが、思考が感情を作り出し感情によって人間は行動が変化していく、の感覚。


と、いう地点に到達し、今日、捨てた。


そのスカートは6月17日に購入。
6月21日に友達たちと食事するのに1回目はき、2回目は確か7月に入りすぐの週、会社に着ていった。
そしてその日、私の朝作ったアスパラベーコンがスカートに陵辱を働いたのである。


毎日朝、クローゼットを眺め当日のお洋服を決める。
必ず、毎日1回はそのスカートを目にする。
しかし、シミがあるわけで、もちろん使わない物質と成り果てているのに、だ。
そして、毎日思うのだ。「あああたしはこのスカートをもう…はけない。ちょうかわいいのに。デザインが大好き。バルーンやばす。ああ、あたしがあの日、アスパラベーコンさえ作成しなければっ!」(一体何の後悔??


値段の問題でもない。
そのスカートはいわゆるアウトレット的なところで2000円ほどで手に入れたものだ。
30000円のスカートでも1000円のスカートでも、それは変わらないのだ。
自分が買うものは自分が”気に入って”買うわけだから、値段とはまったくかんけいがない。


手放すと、すっきりした。


これだけの、思考時間を、はけないスカートのために毎日割いている。
それがわかって、幸せだ。
手放す、が理解できた…ような、気分。

いろいろと


ばたばたしてたらいつの間にか時間がたっている。
気がついたら新しい職場でもう2ヶ月になっていた。


仕事、楽しい。
無職をやってよかった、と思える。
体験しないとわからない性質なので、体験したい。
してみて気づくことが多い。


脳内でシミュレーションしただけではあたしは納得しない。
じぶんはそういうひとなのだ、とあらためておもう。


ここんとこ、いろんなちょっとした人間関係の変化が来ては去り、また来ては去り。


うちひとりは、数年前から知り合いでこちらに勉強のために短期間滞在。
その間じゅう、しょっちゅうあたしを食事に誘い、ゴハンを奢ってくれた。
最初は楽しかった。
しかしあたしが「払うよ」と言っても、「いやいいから」と男気ですかそれは、な態度を取り続けられるうち、それが重荷に。
なんだか餌付け気分になってきて、ううううむ、と思い始めた頃いきなり「泊まりにいく」と言われて、即日拒絶。
なんなの?ゴハンいっぱい食べさしたら泊まりにいけると思ったのか、この人は…。
ちょうど学校に行ってた冬の3ヶ月間の出来事。
あたしも毎日五時で学校終わるし、ヒマだったし、無職だったし、ゴハン食べさせてくれるのは経済的には悪くなかったが、その態度がそのように受け取られたのかと思うと、なんだか少し、難しいもんだな、と思ったりした。


もうひとりは、やはり何年も前から知り合いで、たまにゴハン食べる人だった。
ある日、なんだかつきあってほしいみたいな感じに突然なった。
でも、いいひとなんだけど。
いいひとだからとても断りにくくて、ずっと無口になってしまった。
しかしあなたではないのだ、ごめんよ。
すいません、とこないだ断った。
ライヴに行きにくくなってしまった、がそれはそれでそういうもんだしそういう流れなんだろうと思うことにした。


ひとりひとり、みんなそれぞれあたしに教えてくれたことがある。
なんでもいっこいっこパズルピースみたいに。


いつになったら、このパズル、ハマって全貌がみえてくるのだろうか?


仕事のパズルは出来上がるのにちょうど一年かかって、今の職場にいる。
恋愛のパズルはとてもロングスパンだ。


まだ、全体像が、見えない。

出世欲


友人から電話があり、春のたけのこ三昧御膳の会開催。
料理上手で実家から送られてくる食材をいつも食べきれない…との理由で何かとおすそ分けしてくれる友人には感服する。


当日おたずね型だったので、集まったのは友人当人入れてあわせて3名で、たけのこの刺身、焼きたけのこ、たけのこの煮物、たけのこご飯、とたけのこを食べまくる。おいしゅうございました〜。


食べながら仕事の話になる。
たけのこ会主催者は数年前、部署チェンジにて今までの営業色の強いところからいきなり縁の下の力持ち的部署に回されて、それは当時あたかも左遷の様相を示している、と当人が感じたらしく、うーむなんだかなぁ〜的気持ちに追いやられた過去を持つが、考え方ひとつでそれは感じ方は変わってしまうのだ、という体験を地でいった人で、「人様から左遷的と思われようと収入はそんなに変わらないしよくよく考えてみれば時間が不規則な前部署より料理をじっくりと楽しむ時間ができてこうやって、友達を呼んでおいしいもの三昧でありがたい話よのぅ…」との心境に至り現在がある。


今回またその縁の下の力持ち的部署の中でもまた移動があり、力持ちアウトプット処→力持ちインプット処に変化してなんだかやっと会社全貌が体感して会得できた様な気がする、と言っていた。
そしてソレと同時に、「自分は出世欲、あったよなーと強く感じた」と。


参加者のもう1名も、「出世欲かどうかは知らんけど、承認欲求はむちゃくちゃ強い」と。
彼女も営業で、ヨーロッパとかに出張でいきまくる、いわゆる、稼ぐ系ねーちゃん、の子だ。


おとこのこが内包されてる…子達はやっぱり稼ぐ金額が違うんだよなぁ〜と感じたあたし。
おんなが仕事をし続けるということにおいて、必ず内なるおとこのこは内包されている。
あたしが仕事ができるな〜と感じる友達はみな、仕事が忙しい時期になると、おとこのこの波動を発する。
顔がキリッとしまり、男性っぽさが如実に現れるのだ。
だから、友達たちが今現在仕事に追われているかいないか、繁忙期が顔ですぐわかる。変な能力だなぁと自分で思う。


自分の場合は出世欲はよくわからん。
職種も違うしな〜。昔は営業もやったけど、バックオフィス的な仕事がなんだか好きだし、人生的になんかそういう流れになったし、実は管理部門がお金は生まずとも要でここがしっかりしてるとしてないでは大違いなのだよ君、的考えなので、やっぱりこれはこれで適職なのだろうと思う。
舵を握っている感じとか。影のフィクサーって感じとか。(勝手な自分の仕事イメージ妄想


出世ってなんだろ?
実は、あたしは出世が怖い。


今まで生きてきて、「社会に認知されて凄いところに行くような人」になれる場面がありました。
手の届くところにそれはあった。富はともかく、名声かどうかは知らねども確実に名が通る、そんな立場になる場面。
でも、あたしは選ばなかった。


あれを選んだら、今頃はあの三角の屋根のところに今も尚出入りする輩になっていたんだろう。
あんなところはごめんだ。


この選択は正しい。
そう、自分は感じている。