満月に死す

父が旅立った。


先月の19日未明、就寝時に嘔吐した胆液を誤飲、誤飲性肺炎を起こし意識不明になり22日死亡。
19日真夜中母から電話があり、病院から電話があったから今から行ってくるという。
母は慌てていて家から飛び出したもののタクシーがつかまらない、といいながら歩きながらの電話。
病院は家からタクシーで10分もかからないものの1月の寒空、父は病院にいるのだから看護師が処置してくれているわけだしあんたのほうが心配ですよあたしは、と家に帰りタクシーを呼びなさい等と話をしている会話の中で「病院から電話がかかってくる数分前にね、犬が突然吠え出して鳴きやまなくて電話じゃなく犬に起こされたのよ」という話を母がする。そうこうしているうちタクシーが捕まったらしく母は病院に向かった。


真夜中にたたき起こされ事が事だけに眠れない。
お湯を沸かしお茶を入れとりあえず飲み、ああそういえば20日は満月だ、と思ったり。
しかし犬ってほんと、凄いな、と思ったり。
普段夜中に吠えることなどないというのに、こういう時はやっぱりわかるんだ…。


夏以来、毎月大阪に帰っていた。
手術後一旦退院したが、11月に再入院し、ご飯が食べられないのでみるみると痩せ果てていっていた父を毎月見舞った。
食べ物を食べられないので皮膚もカサカサして粉を吹く。
クリームを持っていって手足をいつもマッサージしていた。


11月に見舞って身体をマッサージしている時、突然圧倒的な悲しみがやってきた。
しかしそれは「あたしの」悲しみではなく、「父の」悲しみだった。
人の身体を触っていると、ときたまその人の感情がどごん、と入ってくる。
その区別は一体何なのだ?と問われても、「そうなのだからそうなのだ」としか言いようがない。
電車の中などでも起こることだ。
あたしはごきげんで何の不満もない時に混雑した電車の中にとんでもなく不満な人がいたりすると触れると突然「ぐわん」とわたしは不機嫌になる。それは伝染ったとしかいいようがない。
何かをされたわけでもない、混雑は毎日の事、なのにただ触れただけ、そしてそういう時は速やかに降りるか車両を変えるととたんにそれは消失する。
伝染る感情で一番わかりやすいのはイライラだと思う。イライラしている人のそばにいるとだんだんイライラしてくるのは誰でも経験しているはずだ。
感情の伝染の真偽はともかく、あたしはそういう体質だ。


父の悲しみは、チームA家での今世がもうすぐ終わる事を悟っている悲しみだった。
あたしたちA家での父親としての今世が終わる。
それを本当に理解し、愛するものともう肉体では触れ合えず語りえない地点がもうすぐ来るのだという思い。
11月「ああそうかもうすぐだな」と思った。


22日土曜日(父現在危篤)新幹線に乗るために山手線に乗っていたとき「葬式はいらない」という新書を読んでいる人が目の前にいた。
ふーん、合理主義ねぇ、と思いつつ移動。
大阪に着き地下鉄で移動中、電話。
弟から「今、息を引き取りました」


あと20分で着く、というところで、父は旅立った。
お看取りは出来なかったが、なぜか納得した。
看取ったのは母と弟と弟嫁と甥。
うーんうまいことできている。
ちゃんと墓を守っていく人材だ。
父はあたしに見られたくなかったのだと思った。
最後まで娘にかっこつけやがって、このやろう、と。


そして葬式に突入。
葬式はいる。
それはバタバタとすることにより、一時的に感情のストップがかけられるからだ。
喪主側は圧倒的にホストだ。
来てくださる親戚、知り合い、友人、会社関係にいたるまで、全ての人に感謝し、食事を手配し、気を配る。
悲しむ暇を与えない。
それはトロンとした彼岸と此岸の混ざり合った時間感覚の中で彼岸に取り込まれないための忙しさ。
衝撃を吸収するクッション材だ。


父が病室から出るとき看護師に見送られた時に言われた言葉が「お父さんほんとうに男前やったのにもったいないねぇ」
なんと、後で聞いた話だが人気があったらしい。
外来の看護師も、以前手術時お世話になった別病棟の看護師も見舞いに来ていたらしい。
あたしの友人にも看護師がいるのだが「ふつうそんなことしない」らしい。
担当から外れた人をわざわざ見舞うとかしないと。
そしてその全ての看護師が全員べっぴんさんだったのも謎というか。


そうか、父は男前だったのか…。自分の親なのでよくわからなかったヨ。
最後の最後までモテル人だった。母は多少それで泣かされていたが。


まんぞく、と父は笑っているような気がした。


そして、18日。
また訃報が届く。
他人だが親戚のような濃密さでおつきあいしていた家族のおばあさんが昨日旅立った。


空を見上げると、また、満月。


人は満ちて生まれ、そしてまた満ちて死す。