変化


今週何かと色々あって、もうなによ!プンプン!とか自分の思い通りにならなかったことに対して思いを馳せてみたり忘れてみたり。
イデオロギー怖いわクッキングしちゃってよもう…とか自己内部で文句をブツブツ。


でも物事はなんでも途中なんでも中間地点だからまぁ、今日のところはとりあえずこれで、などと自己内部を「これでいいのだ」と鼻毛はないが気分だけ鼻毛をふぅと吹いてパパっぽい気分にしておさめて。


外側に事象として現れる変化というものが起こりうる前に、いつも何かが水面下で動いているのだ。
それは事象として現れるまで自分にはわかりはしない。
その目に見えないところで何かが動いているというその淡々とした日々が日常と呼ばれるものなのであろう。


事象として表れた時点でそれは一つの扉的形式となって現れる。
扉は突然現れるかのように見えるのだが、実は最初からそこに存在していて行く先に霧がかかっていて見えない突如として現れる扉というのも存在するし、自分自身が扉を形成中で出来上がった扉を自らが開く、というのもある。


扉を見つけることが出来たら開く。
もちろん見つけても扉を開けるかその扉をやり過ごすのかも自分の自由。
あたしは扉を見つけたら即座に開く派。
しかしそこから先はまた、次の扉が立ち現れるまでの日常が淡々と続くのだ。


連続的に扉がババババ!と続いている出来事にたまに人は遭遇する。
そういう体験はジェットコースターに乗っているかのような怒涛の流れ。
楽しいけど怖くてきゃあああぁぁぁ!と叫びながら恐れながら楽しむ。


開いてくぐった扉は後ろでバタンと音を立てて閉じ扉は消えうせ、もう後に戻る事はないし、できない。
今年はその扉がババババ!っと連続して立ち現れた年だった。
もうくぐった扉は消えうせていて、後戻りは出来ない。
自分が先に進むと決めたからだ。


人が感じる変化というものは単純に扉を見つけたときだけに感じられる。
でも動いていないと錯覚するかのような日常の中、自分の目に見えないところで、扉は形成されている。
自らが扉を形成しているという事を人生の中でいつか気づく時がやってくるまでは、そう感じる。
本当はその動いていないかのように見える日常の方が大切なのだ。


外側の変化が扉。
内側の変化が扉形成。
たまにボーナスステージっぽい突発的に現れる扉。


いつも物事は水面下で動いている。
静止している事はないのだ。
それには、一般的に「退屈な日常」という名前が付いている。
ホントはその動いてないかのように見えるところが一番大切。


今日もあたしは次の扉を淡々と形成しつつ同時に突発的扉がないかを見渡している。