目を見るという事


少し前に私の悪口を言っている人がいる事を聞いた事を書いた事がある。


先日、ちょっとした集まりでまた同じ場にご一緒する事となった。
相変わらず、ずっと避けている風だったのでそっとしておいた。


帰り、みんなと別れる際になり、「んじゃまたね」となった時、その彼が私の目を見た。


あぁ、もう大丈夫だな、と思った。
目を見られるようになったのなら、いつかまた話しかけてくるだろうと思った。


人の事を悪く言う時、本当は誰だってどこか奥の方が辛いと思うのだ。
でも、そうせざるを得ないほど苦しいときがあるのを、あたしは知ってるから。
苦しいとき人は誰かのせいにしたほうが楽なときがある。
そういう時はそうすればいい。


彼の離婚問題は私個人とは何の関係性もないにしろ、「私がそれを知っていたのに教えなかった」という事から買った恨みというものだった。


誰だって辛いときは一時的に誰かのせいにしたいよね。
それがぐねぐね曲がって飛んできた変化球にしろ、その人から見ればそうしなければその時はどうしようもなかったんだろう。


そういう時、いつでもあたしのせいにしていいよ。
それで一時的に気が楽になり、プロセスのひとつとして、いつの日かその事に気がついてくれたならあたしはそんな事平気だ。


等と、ふと思った出来事で、目を見てくれた彼に対して、言葉には出さないけれど、「辛いところから早く抜けれたらいいね」という眼差しだけ送った。


起こっている物事や現象が辛いのではなく、自分の感情がどうにもならぬ辛さは自分自身で抜けられる事に、早くその事に気づくといいね。と。


周りにいる人、知ってる人、はもとより、Web上の見知らぬ人であっても、お星さまをくれる人、一言でも言葉を交わしたことのある人や、なんにも言わなくても読んでくださった方でもいい。


きれいごとに聞こえるかもしれないけれど、やっぱり心穏やかで幸せであって欲しいと、祈る事は私個人の勝手だ。


いつもありがとう。
心穏やかで平和でありますように。


月がとっても明るくて、一人でニコニコして空を見上げながら帰るという妖しい所業のあたしがなんでか祈ってみたりする、中秋の名月