投影


友達はいい男だ。
男前、仕事も出来る、才気溢れる人で一時期は芸能人のくくりに属してた人。今も、かな?
都内に一軒家を構え、優雅に暮らしている。


でも。
彼女がいない。
欲しくないなら何の問題もない。
でも、彼は彼女が欲しいといつも口にしている。
出会いも多くて、はっきり言ってモテモテさんだ。
言い寄る女は数知れず。
なのに、出来ない彼女さん。
口で「欲しい欲しい」と言っていても手に入らない。
「選り好みしずぎなんじゃね?」と突っ込んでみるも、「んなことしてない」と言い捨てる。


それは、何故か?


あたしは彼に「人を傷つけたくない」という深いものが潜んでいる事に気づいてた。


彼と会うといつも朝方まで話してた。
言葉の端々に「言語化されない」その思いが滲み出る。


彼の事は「まぁいつか気づいたらいいのになぁ、頑張れ。頭が良くて男前な怖がりさん」と今も思っている。


人の事を変えようなんてそんな傲慢な事は思わない。
その人はその人の今現在のベストを尽くしてる。誰でも、だ。


どんな人間関係にも学びは潜んでる。
あたしが自分で出来る事、それは、「そう思った自分を観る」ことだけだ。
あたしが彼に見たものは、あたしの投影である、という事。


あたしも「人を傷つけるのはいやだもういやだ金輪際いやだ」という思いを抱えているのか、と彼を見て思った。
でも、投影というものは、全部逆になって写ってるものだった。


それを観始めた時、あたしは「人を傷つける自分」が嫌で、それは「自分が傷つくのが嫌だから」だという、投影の左右反転を目の当たりにした。


自分の中で、単純に投影というものは、相手に思う事が自分の思う事だと思っていた。
今年の初旬、エッセンスのワークショップに出ていて、クライアントにするセッションの沢山の形を実際のセッションのシミュレーションという形をとり、各自がペアを組んで、ガンガンエッセンス飲みまくる、という事をしていた時。
ポコン、と降りてきた。
腑に落ちる感触。
投影というものは、ほんまもんの鏡みたいに左右逆転して写っている、って。
大体において気づいた時、というものは「お口あんぐり」な気分になる。
何でこんな簡単な事がわかってないのだあたしよ、みたいな。


一番ジレンマな事は、こういうのって言語で伝えられない、って事だけ。
どんなに上手く美しく言葉を紡いでも、わかんないもんはわかんない。
というか言葉で伝えるものでなく、某かの体験でしか身につかない。
知ってるのにみんな忘れてるんだ。
だから、「思い出した」とき、まったくもってそれは「お口あんぐり」以外の何者でもない、という事。


知識はないよりあった方がいい。
でも、知識は腑に落ちないと胆識に変わらない。
ほんとの意味で使えない。
胆識になってない知識はただのおもちゃだ。
そしておもちゃは増やせば増やすほど満足はするけど、おもちゃ箱いっぱいになってしまって、もうなにがなんだか?状態に陥るのだ。


頭のいい人ほど陥りやすい罠がそこに潜んでる。
頭のいい人は大変だな、といつも思う。
もちろん彼も頭のいい人。


みんなやってごらん。
「あなたに見るもの」を「わたしが左右反転して見ている」に変えてごらん。
きっと見えてくるものがある。


人間、腹が立つのは、わかってもらえなくて悲しい時か、図星を指摘された時だけだ。
感情が波立つのは、自分の触れられたくないところに触れられた時だけなのだから。
なんとも思わなかったら、「あ、そう?ふーん」って全然自分は揺れないんだから。


わかってもらえなかったら、潔く静かに立ち去る事。
それが相手を尊重するという事だ。
図星を指摘されたら、観るものは自己の裡だけだ。


一番簡単でいて一番難しい。
いつもほんとのこと、ってのはそんな感じだと思う。