身体


自分の身体の反応を観るのが好きだ。
どういう事かというと、何か物事を起こすときとか、そういう時に、感じてみる。


今はもうやってないけど、昔ヨガをやっていて身につけた。
教室に通わない自宅ヨガ派だったのだが、今のところに越してから、十分なスペースがなくなったから。
瞑想とかはヨガ時代の名残でやるけどそれも今は電車の中だけがほとんど。
電車瞑想は凄く好き。
外側の音や、人の気配が消えていく様が楽しめて、音楽なんて聴いてられないですよ。
昔はヘッドフォンで遮断派、今は自分でそれを作り出す。物理的遮断じゃないのが楽しくて。
あえて静かな自宅とかでやらないで、外の気配がいっぱいのところで変化を見るほうが楽しいんだから。


それでもう、身体を観るのは自分の勝手なオリジナルな見方になってしまっているが、別にそんでええと思っている。
自分のイメージは攻殻の素子をスキャンする丸い白いわっかだったりする。
頭から足、足から頭、と、わっかを上げたり下げたりして、感じてみる。


今日、今までの自分だったら、絶対しない事をやった。
空気を読まず、というかあえて、それでも、やってみたい、と思ったことをやってみた。
自分の中の臆病者を一回、壊してみたかった。


何をやったかなんて事は、そんなこともういえませんよ。
いやべつにたいしたことじゃないんです。人様から見れば、きっと。


自分の中で普段しない選択、というのをやるときに感じる恐怖みたいなものがあると思うんだ誰でも。
たいていは、それで行動をとどまったりすると思う。
その恐怖の感じ方というのが、二種類あるんだよな。
身体を観てるとだんだん違いがわかってくる。
これはやってはいけないことだ、となんとなく感じるからやらないほうがいい外側から来る恐怖とやってもいいんだけど、ただ自分が内側から恐れてる恐怖というのは、あからさまに感じが違う。
表現力に乏しいので何を言ってるのかわからなかったら、ごめんなさい。
っていうか身体の事って言語に出来ないんだよなぁ。あたしには。
どこがどうなると書いてしまったら個人差があるから変な観念が付くと思うから書かない。


どっちにしても、なんとなく怖い感じがする時には人はその物事をやらないことを選択すると思う。


逃げていい怖さと逃げちゃダメだの怖さの違いがわかった。
今日、自分が恐れているだけの方の身体の感じ方だったので、あえてやってみた。
そしたら、行動した後凄く、身体が軽くなった。そして腰が据わった感覚。そしてひとまわり自分が大きくなったような感覚。
身体がYESという瞬間を聴いたような気がする。自分の中の臆病者を壊したら、身体って喜ぶんだな、と思った。


でもきっとこの臆病者はいなくならない不死身ちゃんなんだ。
だってまた怖くなったら出てくるもの。一回一回壊さないと。
自分の肉体が本当に死んでしまうか、
おチャクラ全開悟りでGO!(by桜玉吉)になるまでは(しかし突然古い言葉思い出すもんだなぁ…