時間感覚とゲンカツギ


仕事を辞めてからというものの日々の長さに驚いている。
仕事していたら一ヶ月というものはほんとに光陰矢のごとしっぽく流れてあれあれえ、となるわけだが、辞めてからまだ一ヶ月と少ししか経っていないのがまるで嘘のよう。時間間隔というものはこうも違うものなのか、とちょっとびっくりしている。


子供の頃は一日が長かったがオトナになるにつれ日々がびゅんびゅんと飛び去っていくと思っていた。
でも仕事してないだけでこんなに時間って長いのか、と不思議な気分。


時間が有り余っていて、雨が降ってるから徒歩で健康保険切替の為、砧出張所にお散歩。
成城を雨の中お散歩する。
成城はお庭が各戸凄い事になってるので、歩いてて楽しい。
軒先に石榴がなってる家とか。
しかし、良く考えてみれば南天が植わってるところがないなぁぁなんて思ったりする。
玄関に南天植えるとか鉢置くとかいう、あれも関西方面の風習なのだろうか。
四国など玄関左右に赤南天、白南天セットで植わってるのに、と思う。
まぁ日本家屋がほとんどなくて、なんだか玄関に天使がちょこんとのってたりする、謎家が多いから、南天もナシなのかなぁ。
イングリッシュガーデンとかそんなノリのほうが多いもんなぁ。
咲き乱れるお花達。


南天は魔除けだから玄関、とか引っ越したら万年青を買えとか、そういうのって、ゲンカツギ大好き系親から懇々と言われ続けたりしないと、頭に入らないものだしな。
人生最初に引っ越したとき、それは結婚の時だったのだが、ネパール人の旦那だったので、これまた、向こうより、色んなものを持たされなにやらやった遠い記憶がある。
赤い粉にまみれた米とか、色んなものが袋に入ってた。
とにかく神様ごとやらゲンカツギやらから逃れられない運命なのだ。


日本の親がさせようとするゲンカツギ、外国の親から賜ってきたゲンカツギ。
これはもう、そういう家庭に生まれたり、信心深いところの国の人と結婚したりしたのだから、致し方ない話である。
勝手に身に染みていくもんである。


その後数回引越してもやっぱり同じようなゲンカツギはやらないとなんだか気持ちが落ち着かない、とっいたものになってしまい。


実際なんかやらないといかんのではないのだろうか、と、今回もさすがにマンションなので南天までは買わなかったが万年青は買ってベランダに鎮座中。
両親の刷り込みとは恐ろしいものよ。


勿論引越の時は塩持参。
これも東京の友達に聞いたらそんなことしない〜とか言われる始末。
荷物を入れる前、カラッポの部屋の四隅に塩。
もしくは関西地方には方違神社というものがあって、引っ越すたびにそこにお砂を貰いに言ってやっぱり四隅に撒いたり置いたりするのだ。
「かたたがえ」じゃなく「ほうちがい」神社と読みます。
今回はほうちがいさんに行く時間がなくてお塩になりましたがそれも住吉神社で頂いたもの。


あたしなんかお塩だけだからまだまし。
だって、親戚に和歌山熊野に神職がいる友達は赤南天、白南天の枝を玄関にまず入れて、それから四隅にお塩。
それを一日以上放置。
終ったらその南天は捨てる。本式は神社に焼きに行く。
前の人の気やらなにやら不浄を吸着して、さよならするのだ。
いわゆる消臭なんとか、みたいなものなのだ。
それから実際に荷物を入れるお引越を開始するんだから。


そして勿論友達の部屋には神棚がある。
とってもおしゃれな部屋にちゃんと神棚。
家族に神職な人がいる人には当たり前の光景なのだ。


まぁあたしんとこは神職じゃなく真言宗系僧侶に弟子入りしてみたりお滝に入る修験系やってみたり、な親父なのであたしに神棚まで置きなさい、とは言わないが。
真冬に滝に打たれたりする親父なのである。


賃貸のお部屋には前に住んでた人の気が残ってるから、それを浄化しないと、自分の家にはならない、らしい。
下手したら前の人の気に影響されてしまう。


たしかに、酷いところが存在するし。
部屋を決めるとか言う時にそのセンサーがぶっ壊れていたら、ほんと後がどうしようもないし。
誰だって、なんとなく感じてるはずだ。
あ、ここ住みたい、とか、なんかやだな〜とか。
そういうのを無視してはいけないのだ。


相変わらず東京の道はなんだか曲がりくねっていて、前にも徒歩で一回行ったのにまた、途中で迷う。
しかも行きも帰りも。
基本的には方向音痴ではないはずなのだが碁盤目の道にしか役立たないのだろうか。
ほんまに東京の道は曲がりすぎ。